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これだけ!世界史

中国文明の誕生

 ここでは、主に秦王朝が誕生するまでの古代中国史について学びます。中国史は特に暗記要素が強いので苦手とする人が多いです。世界史に費やせる時間が少ない場合、皇帝の名前と、その皇帝が行ったことを優先的に覚えていきましょう。

 まず、黄河文明が中国に興ります。黄河文明は大きく分けると仰韶文化(ぎょうしょうぶんか)と竜山文化に大別することができます。仰韶文化では、彩陶、竜山文化では黒陶と呼ばれる陶器がそれぞれ作られました。

黄河文明
黄河文明

 黄河文明で初めて誕生した王朝は(いん)であるとされています。殷では、占いを行う政治を行う神権政治を行いました。また、占いを行う際には、甲骨文字を使用しました。
 殷は(ゆう)という地方国家の連合体である邑制国家です。邑のなかでも強力なものは大邑といいます。

甲骨文字
甲骨文字

 殷ののちに成立した王朝がです。周は鎬京(こうけい)に都をおきました。また、周は諸侯に封土を与える、封建制による統治を行いました。諸侯には、卿・大夫・士と呼ばれる家臣がいました。また、この当時は、同じ血筋の集まりを宗族と呼び、宗族によるルールである宗法を定めました。
 その後、異民族の侵入により周は都を洛邑に移しますが、統治が崩れ始めます。そして、地方勢力が台頭していきます。これ以降は、春秋戦国時代と呼ばれる時代に突入します。春秋時代には、周の王を尊重するという尊王攘夷を地方の諸侯は掲げていましたが、戦国時代には下克上と呼ばれる、武力による実力行使の時代になります。

鎬京と洛邑
CC BY-SA 3.0, Link
鎬京と洛邑

 春秋戦国時代には、諸子百家とよばれる、さまざまな思想家が現れ、各地の諸侯の保護を受けることになります。まず、孔子は儒家の創始者であり、仁(人情)や礼(規律)による国家統治を説きました。彼の言葉は、死後『論語』にまとめられています。孔子の考え方を、荀子(じゅんし)と孟子が発展させていきます。
 荀子は性悪説の思想を説き、人間はもともと悪の性質を有しているから、(規律)による国家統治が必要であるとしました。また、彼の思想は、法家とよばれる学派に引き継がれ、韓非によって大成します。
 一方で孟子は性善説の思想を説き、人間はもともと善の性質を有しているとし、王道政治(仁を重視した政治)を説きました。

孔子
「至聖先賢半身像」
孔子

 その他の諸子百家では、道家墨家が重要です。道家は老子荘子による思想で、無為自然を重視し、自然に従って生きることを説きました。
 墨家は墨子による思想で、非攻兼愛を重視しました。非行は、防衛戦争以外の侵略戦争を行わないこと、兼愛は万人を区別せず愛することです。

 春秋戦国時代には、中国西方に位置するが強大になっていきます。秦は、商鞅(しょうおう)が法家の思想をもとに郡県制などの改革を行ったことで、中央集権化がすすんでいきます。郡県制は地域を郡と県という2つの単位によって統治を行うことをいいます。また、商鞅の時に、秦の都が咸陽(かんよう)におかれました。

 そして、始皇帝のときに中華統一が行われます。始皇帝は、法家の李斯(りし)を登用し、法による中央集権体制を確立します。始皇帝は、李斯の提言により焚書・坑儒(ふんしょ・こうじゅ)により、儒家の書物を焼いたり、儒家の人間を穴埋めにするなどして、儒家に対して言論弾圧を行いました。また、半両銭という貨幣の使用を強制することで、貨幣の統一を行いました。
 彼の死後、兵馬俑(へいばよう)と呼ばれる、人や馬の形をした大量の像が埋葬されます。絶大な権力を誇った始皇帝ですが、彼の死後には陳勝・呉広の乱と呼ばれる農民反乱により秦の支配は形骸化し、結果的に滅亡します。

秦王朝
SY, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons
秦王朝(★マークの場所が咸陽)

確認問題

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  1. 殷では、占いによって政治を行う神権政治が行われた。
  2. 道家は無為自然を重視した。