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これだけ!世界史
漢王朝
ここでは、漢王朝の興亡を見ていきます。この辺りは、いろいろな地域名が出てくるため、地図でこまめに場所を確認しておきましょう。
秦が滅亡すると、劉邦と項羽が争い、劉邦が勝ち、中華を再び統一し漢王朝が樹立されました。都は長安におかれました。
漢では、郡国制による統治が行われました。郡国制は、郡県制と封建制のハイブリッドで、長安の付近では郡県制が、地方では封建制が用いられました。
また、劉邦の時には北方遊牧民匈奴の王冒頓単于に敗れ、和親策を採ることになります。
劉邦の死後に、諸侯の力が大きくなってしまい、諸侯による反乱である呉楚七国の乱が発生していしまいますが、鎮圧に成功します。これによって、その後即位した武帝は、実質的な郡県制による中央集権体制を確立することに成功します。
- 漢王朝
武帝は、まず、官吏登用の手段として郷挙里選を用います。これは、地方に優秀な人材がいた場合、地方長官によって中央に推薦される、という内容のものです。また、儒学の官学化(官僚が学習する学問)を行い、董仲舒を五教博士という役職に任命します。
また、塩・鉄・酒の専売や均輸・平準を行い経済の統制を行いました。均輸は地方の余剰物を、それが不足している地域で売ることで物価の調整を図るものです。現在も、米が不足すると米の価格が上がって、米がたくさん収穫できると値段が下がりますよね。
平準は、商品の物価が下がった時に政府が商品を買い取り、価格が上がった時に商品を売ることで、物価の安定化を図るものです。
さらに、武帝は、統一通貨として五銖銭を発行しました。始皇帝が発行した統一通貨の半両銭と混同しないようにしておきましょう。
武帝の時代には、宦官の司馬遷が歴史書『史記』を書きました。史記は皇帝の実績を記録した本紀と、さまざまな人物の伝記である列伝などから構成される紀伝体という作風で知られています。ちなみに、宦官とは、皇帝や皇后の身の回りの世話をする、去勢された男性です。
- 五銖銭
武帝は、対外的には、まず張騫を大月氏国に派遣し、同盟を結ぶことで匈奴を挟撃しようとしました。ただし、派遣自体は実現しましたが、同盟は叶いませんでした。
次に、武帝は中国南方の南越という国を滅ぼし、日南郡を設置しました。
また、朝鮮半島では、衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡を設置しました。
- トムル, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons
- 大月氏
武帝の死後、皇后の親戚である外戚である王莽(莽の字は、草冠の下は本来は大でなく犬)が前漢を滅ぼし、新王朝を創始しましたが、赤眉の乱によって滅亡し、再び漢王朝(後漢)が復活します。
漢王朝が復活すると、光武帝が即位します。また、都は洛陽におきました。光武帝は、倭人(日本人)に、「漢委奴国王」と書かれた金印を日本に授けました。
- 王莽
光武帝の死後には、班超が西域都護という役職に任じられ、西域(中央アジア)の統治を行いました。また、班超の兄の班固は、『漢書』を執筆し、前漢の歴史を編纂しました。
この頃には大秦王安敦(ローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスの意味)の使者が日南郡に到着したとされています。
後漢の時代には鄭玄によって、儒教の経典の字句解釈を行う訓詁学が成立します。さらに、製紙法を蔡倫が改良します。これらによって、中国の文化は発達していきます。
しかし、党錮の禁で、宦官が官僚を粛清するという出来事が発生し、漢の支配が不安定になります。その後、張角率いる太平道によって、黄巾の乱が起こり、三国時代に突入し、漢の支配は形式的なものになり、再び中国は戦乱の時代に突入します。
確認問題
波線部を、PCであればカーソルを合わせる、スマートフォンであればタップすることで答えが表示されます。
- 郡国制は、郡県制と封建制を組み合わせたような統治体制である。
- 司馬遷の『史記』は、紀伝体という作風で知られている。