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これだけ!世界史
古代インド
ここでは、古代インドについてみていきます。それぞれの王朝の特徴を覚えていきましょう。
まず、インドにもともと住んでいたドラヴィダ系民族によって、インダス文明が形成されます。インダス文明の遺跡として、インダス川下流域のモエンジョ=ダーロと、パンジャーブ地方のハラッパーがあります。モエンジョ=ダーロは、煉瓦によって都市建設がされており、印章や浴場が見つかっています。
- インダス文明
その後、アーリア人がカイバル峠を超えて侵入し、ドラヴィダ系民族を征服しました。アーリア人は、ヴァルナ制という階層制度を作り上げました。一番上の階層がバラモン(司祭)、その下がクシャトリア(武士)、その下がヴァイシャ(商工業者)、その下がシュードラ(農耕民)、その下が不可触民です。それぞれの名前と、職業を覚えておきましょう。
一方で、ジャーティという職業ごとの横のつながりもありました。ヴァルナ制とジャーティを合わせて、カースト制と呼びます。
- ヴァルナ制
アーリア人は、バラモン教という宗教をつくりました。バラモン教は、ヴァルナ制の一番上の階層である、バラモンによって祭祀が行われます。また、バラモン教の聖典はヴェーダという名前で、最古のヴェーダを『リグ=ヴェーダ』といいます。
しかし、ヴァルナ制への批判から、新しい宗教が誕生します。まず、ガウタマ=シッダールタは仏教を、ヴァルダマーナはジャイナ教を創始し、ともにヴァルナ制を批判しました。また、仏教はクシャトリアやヴァイシャの、ジャイアナ教はヴィアシャからの支持を得ました。
一方で、バラモン教も、こうした批判を受け宗教改革を行い、ウパニシャッド哲学を創始しました。
- Y.Shishido, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
- ジャイナ教寺院
この頃、マガダ国とコーサラ国という2つの国が争い、マガダ国が勝利します。しかし、アレクサンドロス大王が侵入してきたことによって、マガダ国は疲弊し、マウリヤ朝のチャンドラグプタ王がインドを統一することに成功し、パータリプトラを都としました。
マウリヤ朝最盛期の王アショーカ王は仏教を重視し、ダルマ(仏法)による統治を行いました。また、仏典結集(仏典の編纂)や、スリランカへの仏教の普及を行いました。
- Vastu at en.wikipedia, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
- マウリヤ朝
マウリヤ朝の後にインドを支配したのが、イラン系民族クシャーン人の王朝であるクシャーナ朝です。都はプルシャプラに置かれました。
最盛期の王はカニシカ王です。彼の時代にはガンダーラ美術が発達し、ヘレニズム風の仏像が作られていきます。
また、カニシカ王のときに、個人の悟りを重視する上座部仏教を批判し、民衆の救済を重視する大乗仏教が生まれ、ナーガールジュナ(竜樹)によって大成されました。
- Map created from DEMIS Mapserver, which are public domain. Koba-chan.Reference: Schwartzberg Atlas, v. , p. 145. Map g, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
- クシャーナ朝
その後にインドを統一したのがグプタ朝です。グプタ朝はチャンドラグプタ1世によって創始され、都はパータリプトラにおかれました。王の名前や都の位置などの点で、マウリヤ朝によく似ています。ただ、マウリヤ朝の創始者はチャンドラグプタ「王」であるのに対して、グプタ朝の創始者はチャンドラグプタ「1世」です。注意しておきましょう。クシャーナ朝のときには、ギリシア人が季節風貿易の体験を伝える『エリュトゥラー海案内記』を書いており、国際的な交易が行われていたことがわかっています。
その後、チャンドラグプタ2世のときに全盛期を迎え、美術が発展します。まず、サンスクリット語によって『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』という二大叙事詩が書かれました。そして、カーリダーサは『シャクンタラー』を著しました。それぞれの作品名を混同しないようにしておきましょう。
グプタ朝の時には中国の、東晋という国から法顕(ほっけん)が訪れ『仏国記』を記しました。また、その後仏教研究機関のナーランダー僧院が誕生します。一方で、この頃には、バラモン教を発展させたヒンドゥー教が発展し、仏教の勢力は衰えていくことになります。ちなみに、ヒンドゥー教は『マヌ法典』によって、それぞれの階層の義務を定めています。
この頃には、「ゼロの概念」が発見され、現在の数学に計り知れない影響を与えています。
その後、ヴァルダナ朝が登場し、ハルシャ王が統治しました。都はカナウジに置かれました。また、このころに、中国の唐王朝から陸路で玄奘(げんじょう)がナーランダー僧院に訪れ、『大唐西域記』を記しました。
- Map created from DEMIS Mapserver, which are public domain. Koba-chan.Reference: [1], CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
- ヴァルダナ朝(筆者がカナウジに下線作成)
しかし、ハルシャ王の死後にインドは分裂し、ラージプートと呼ばれるヒンドゥー教諸侯たちによる国が乱立するラージプート時代に突入します。
ラージプート時代に、唐から義浄が海路でナーランダー僧院を訪れ、『南海寄帰内法伝』を書きました。また、義浄はインドに向かう途中で、東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国にも訪れています。
確認問題
波線部を、PCであればカーソルを合わせる、スマートフォンであればタップすることで答えが表示されます。
- 仏教はクシャトリアとヴァイシャの指示を得た。
- カニシカ王の時にはガンダーラ美術が発達し、ヘレニズム風の仏像が作られた。