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これだけ!世界史
古代ローマ
このチャプターでは、ローマが都市国家から帝国になるまでの流れを見ていきます。流れを整理して覚えましょう。
まず、イタリアに、ローマという都市が誕生しました。ローマは、元々貴族政で、元老院による統治が行われていました。行政を執行するコンスル(執行官)も、元老院によって選ばれていました。しかし、平民の要求により、民主化が進展します。
まず、十二表法により、慣習法(不文法)が成文化されました。ギリシアのドラコンと概ね同じことを行なっています。次に、リキニウス・セクスティウス法により、2人いるコンスルのうち1人が平民から選出されることになりました。そして、ホルテンシウス法により、平民会の決議が、元老院の承認がなくとも国法となる、ということが定められました。平民会は、平民の権利を擁護するため、護民官という役職を置きました。
特にホルテンシウス法は、どういった内容のものであるかを説明できるようにしておきましょう。
その後、ローマはイタリア半島の他の都市を征服することに成功します。その際に、ローマは征服地に対して分割統治を行い、征服した都市どうしが協力できないようにしました。具体的には、それぞれの都市が、植民市、自治市、同盟市のいずれかに分類されました。植民市や自治市は市民権や一定の自治が認められたのに対して、同盟市は市民権や自治が認められませんでした。同盟市が最も過酷な条件で、ローマの支配を受けていたという点を覚えておきましょう。
ローマはイタリア半島を統一した後も拡張を続け、地中海への進出を行います。しかし、地中海には既に、フェニキア人の植民市であるカルタゴが存在していました。よって、地中海の覇権を賭けて、ローマとカルタゴとの間でポエニ戦争が勃発しました。カルタゴの武将ハンニバルがイタリア半島に侵入するなどして、ローマ側は一時混乱に陥りますが、ローマの武将スキピオがハンニバルを破ったことで、ポエニ戦争はローマの勝利で終わりました。
- This image has been created during "DensityDesign Integrated Course Final Synthesis Studio" at Politecnico di Milano, organized by DensityDesign Research Lab in 2016. Credits goes to Agata Brilli, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons
- ポエニ戦争中の両国の領土変遷
ローマは、ポエニ戦争によって、イタリア半島以外に領土を持ちました。こうした、イタリア半島外のローマの領土を属州と呼びます。属州からは、大量の奴隷が流入してきたため、奴隷を使う農業が発展しました。こうした、奴隷を使用した農業をラティフンディアといいます。
このときから、ローマの民主政は動揺し始めます。グラックス兄弟は、護民官として改革を行おうとしましたが失敗します。そして、平民派のマリウスと、閥族派のスラが、私兵によって互いに争うようになります。最終的に、奴隷であったスパルタクスが反乱を起こしたことで、ローマ共和政は危機に陥ります。
平民派の将軍であったカエサルや、クラッスス、ポンペイウスによって第一回三頭政治が行われました。結果として、カエサルとポンペイウスが対立し、第一回三頭政治は終了し、権力を握ったカエサルも元老院の反感を買い暗殺されてしまいました。
ちなみに、カエサルは、ガリア(今のフランス)に遠征に行っており、その時の体験を『ガリア戦記』を残しています。『ガリア戦記』は、当時ガリア付近に住んでいた、ケルト人やゲルマン人の生活を知る貴重な資料となっています。
次に、オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスによって第二回三頭政治が行われます。これも、オクタウィアヌスとアントニウスが対立し、第二回三頭政治は機能しなくなります。その後、アントニウスはプトレマイオス朝と結びますが、アクティウムの海戦でオクタウィアヌスが勝利します。
オクタウィアヌスは、カエサルが独裁を行い暗殺されたことを省み、自身をプリンケプス(市民の中の第一人者)と称し、プリンキパトゥス(元首制)と呼ばれる形態の政治を行います。元老院との関係も良好で、アウグストゥス(尊厳者)という称号を元老院から贈られました。こうして、オクタウィアヌス以降から、ローマ帝国と呼ばれる時代が始まります。
- Vatican Museums, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons
- アウグストゥス
その後、アウグストゥスの死後しばらく後には、五賢帝時代と呼ばれる、優秀な皇帝が連続して現れる時期があり、この頃にローマ帝国の黄金期を迎えます。特に、五賢帝の一人である、トラヤヌスのときにローマ帝国の領土が最大となったということは覚えておきましょう。
- Kaiser&Augstus&Imperator, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons
- ローマ帝国の最大領土 は2世紀までに間接的に支配した地域
五賢帝時代の後には、カラカラ帝がローマ帝国内の全ての自由民に対してローマ市民権を付与しました。これにより、ローマ法は、ローマ帝国内であれば等しく適用される万民法となりました。
その後、各地の軍人が皇帝を擁立する軍人皇帝時代となり、ローマ帝国の支配が揺らぎ始めます。例えば、軍人皇帝のウァレニアヌスが、ササン朝のシャープール1世によって捕虜にされた、という事がありました。
農業の方法も、以前の、奴隷を用いたラティフンディアから、小作人(コロヌス)を用いたコロナトゥスへと変化していきます。
その後、ディオクレティアヌス帝は、政治体制を、以前のプリンキパトゥス(元首制)から、皇帝の権力が強いドミナトゥス(専制君主制)へと転換を行いました。また、帝国の領土を二分して統治するというテトラルキア(四帝統治)も行いました。
その次の皇帝、コンスタンティヌス帝は、ギリシア人の植民都市ビザンティオンに遷都し、都市の名前をコンスタンティノープルに改めました。
しかし、これらの改革があっても、最後の皇帝テオドシウス帝の死後にローマ帝国は、西ローマ帝国と東ローマ帝国に分断されてしましました。これは、ゲルマン人の大移動によって、ゲルマン人がローマ帝国内に侵入したことで混乱が生じていたことが大きな要因です。
その後、西ローマ帝国は、ゲルマン人によって、東ローマ帝国はイスラームのオスマン帝国によって滅ぼされることになります。
- Flamarande, Public domain, via Wikimedia Commons
- 476年時点での東西ローマ帝国の領域とコンスタンティノープル
確認問題
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- 『ガリア戦記』はゲルマン人やケルト人の文化を知る貴重な資料である。
- コンスタンティヌス帝が遷都したビザンティウムは、ギリシア人の植民都市である。