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これだけ!世界史

明王朝

 ここでは、明王朝について学習します。主に皇帝の名前や制度の名前などが入試に出題されることが多いです。

 まず、朱元璋明王朝を建て、洪武帝として即位しました。都は南京におきました。また、今の日本と同じように、一世一元制を施行し、一人の皇帝が在位しているときは一つの元号が使われました。
 他には、明律・明令という法律が施行されたり、海禁という貿易統制により倭寇という海賊を取り締まったり朱子学を官学化させたりしました。

朱元璋
National Palace Museum, Public domain, via Wikimedia Commons
朱元璋

 明では国民をさまざまな手法を用いて管理しました。まず、土地に関しては『魚鱗図冊』によって管理しました。これは、土地の区画を魚の鱗のように記録していたことが名前の由来です。
 一方戸籍や租税に関しては『賦役黄冊』によって記録されました。これは表紙が黄色だったことが名前の由来です。『賦役黄冊』を活用して衛所制という軍事制度を行いました。
 農村の制度としては里甲制を導入しました。また、村の年長者を里老人という役職に任命し六諭というものを村人たちの前で読ませ、朱子学の思想を広めました。

明王朝の領土
玖巧仔, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
明王朝の領土

 洪武帝のあとには永楽帝が即位し、北京に遷都しました。永楽帝のときに特に重要なのが、宦官鄭和をアフリカに至るまで、海洋ルートで諸国に派遣したことです。これによって朝貢貿易を拡大することを図りました。

 しかし、その後はオイラトと呼ばれる民族によって正統帝が連れ去られるという土木の変が発生したり、アルタン=ハンに率いられたタタールという民族によって北京を包囲されるなど、不安定な状態が続きました。また、南では倭寇が活動しており、北虜南倭と呼ばれる状態に明は苦しみました。

鄭和の航海ルート
Originally by Vmenkov on 2010-08-24, based on the blank map File:Asie.svg (ver. 1) by User:Historicair, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
鄭和の航海ルート

 経済的には、大航海時代によって日本銀やメキシコ銀が流入するようになったため、張居正によって一条鞭法という納税方法を普及させました。これは、土地税と人頭税を銀納するものです。加えて、明のときには長江中流域の開発が進み、「湖広熟すれば天下足る」と言われました。また公所・会館と呼ばれる場所に同郷の商人が集まりました。
 しかし、最終的に李自成によって明王朝は滅ぼされました。

湖広
Evawen, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
湖広

確認問題

波線部を、PCであればカーソルを合わせる、スマートフォンであればタップすることで答えが表示されます。

  1. 永楽帝の時に北京に遷都した。
  2. 一条鞭法は人頭税と土地税を銀納させるものである。