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これだけ!世界史

近世東欧各国史

 この章では、近世における東欧各国の歴史を見ていきましょう。東欧も西欧と同じように君主への権力が集中していくので、それを踏まえて各国の事例を個別に観察していくようにしましょう。

 初めにオーストリアの歴史を見ていきます。オーストリアでは、女帝マリア=テレジアが即位しました。これにプロイセンなどの神聖ローマ帝国の諸侯が反発したことからオーストリア継承戦争が勃発します。この戦争の結果として、マリア=テレジアの即位は認められましたが、代わりにシュレジエンという土地をプロイセンに譲渡しました。オーストリアは、シュレジエンを奪還するために、長年敵対関係にあったフランスとの関係を修復することに成功しました。これを外交革命と呼びます。
 フランスを味方につけることができたので、オーストリアは再びプロイセンと戦争をします。これを七年戦争といいます。しかし、結果的にオーストリアは敗北してしまい、シュレジエンを奪還することはできませんでした。また、七年戦争と同時並行でフレンチ=インディアン戦争が勃発していたことを覚えておきましょう。

シュレジエンの位置(シュレジエンへの下線は筆者作成)
P. S. Burton, CC BY 3.0, via Wikimedia Commons
シュレジエンの位置(シュレジエンへの下線は筆者作成)

 それでは、オーストリアと戦ったプロイセンという国についてもここで紹介しておきます。プロイセン王国は、簡単にいうとブランデンブルク選帝侯領とドイツ騎士団領が合併することにより誕生した国です。
 プロイセンではフリードリヒ2世が即位しました。フリードリヒ2世は、啓蒙専制君主と呼ばれている点が特徴的です。啓蒙専制君主とは大まかには、君主が高い理性を持って国民を導きより強い国を作っていくという理念を表しています。また、フリードリヒ2世は啓蒙思想家のヴォルテールとも交流があったことを覚えておくと良いと思います。
 フリードリヒ2世のときには、プロイセンでは農業を重視して行い、ユンカーと呼ばれる土地貴族が誕生しました。文化的には、フリードリヒ2世はロココ様式と呼ばれる手法でサンスーシ宮殿を建設しました。
 フリードリヒ2世のときには、先ほど述べたようにオーストリア継承戦争七年戦争でオーストリアに勝利し、シュレジエンを獲得することできました。

サンスーシ宮殿
Wolfgang Staudt, CC BY 2.0, via Wikimedia Commons
サンスーシ宮殿

 最後にロシアの歴史を紹介します。モスクワ大公国ではイヴァン4世が皇帝の称号としてツァーリという称号を正式に使用するようになりました。その後、ミハイル=ロマノフによってロマノフ朝による支配が行われます。
 ピョートル1世は西欧に自身が視察に赴き、ロシアの近代化を行いました。また、北方戦争スウェーデンと戦い、バルト海の覇権を握ることに成功しました。さらに、北方戦争中にペテルブルクという都市を建設し、そこに遷都しました。
 加えて、ピョートル1世は康熙帝ネルチンスク条約を結び、中国との国境を定めました。

ピョートル1世のときのロシア
ピョートル1世のときのロシア

 ピョートル1世のあとには、エカチェリーナ2世という女帝が即位しました。彼女はフリードリヒ2世と同じ啓蒙専制君主でした。行なったこととしては、ラクスマンを日本に派遣したり、プロイセンオーストリアを誘って3度のポーランド分割をしたということを覚えておきましょう。ただし、第二次ポーランド分割に関しては、フランス革命の影響によりオーストリアは参加していません。
 ポーランド分割に反対して、ポーランド人のコシューシコが蜂起しますが、失敗します。結果としてポーランド分割によって、ヴェルサイユ条約までポーランドという国家は消滅します。

エカチェリーナ2世
After Alexander Roslin, Public domain, via Wikimedia Commons
エカチェリーナ2世

確認問題

波線部を、PCであればカーソルを合わせる、スマートフォンであればタップすることで答えが表示されます。

  1. プロイセンはオーストリア継承戦争によってシュレジエンを獲得した。
  2. 第二次ポーランド分割にはオーストリアは参加しなかった。