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これだけ!世界史
江戸時代から明治維新
ここでは、歴史総合の対策として、日本史についても軽く学んでいこうと思います。日本が世界史の中でどういう影響を与えていたり与えられていたのか、ということを意識して学習しましょう。
まず、徳川家康によって江戸幕府が開かれ、いわゆる「鎖国」といわれる状態になります。しかし、全く海外と交流がなかったわけではなく、中国やオランダとは長崎で、朝鮮王朝とは薩摩藩を通して、琉球王国(現在の沖縄県)とは島津藩を通して、蝦夷地(現在の北海道)とは松前藩を通して貿易を行なっていました。
- 江戸時代における日本の交易
しかし、幕末になると他の西洋の国とも接触を迫られます。アメリカが捕鯨を行うために太平洋上に進出していたため、当初は異国船打払令によって他国との横流を拒みましたが、大規模な軍事衝突となることを恐れ必要であれば外国人の支援を行うという天保の薪水(しんすい)給与令を発出しました。その後は日米和親条約や日米修好通商条約を締結し、海外との交流が増加する一方これらの条約は日本にとって不利な形態のものでした。例えば日本国内の外国人を外国法で捌くという領事裁判権が海外に認められる一方で、日本は関税自主権を持たず、貿易において不利な立場に置かれていました。
こうした状況を受け国内では、外国人を排斥し天皇中心の国家を樹立すべきであるという尊王攘夷論が大きな影響を持ち、高杉晋作や桂小五郎が活躍します。
- 『レンズが撮らえた 幕末維新の志士たち』 小沢健志 監修 山川出版社 2012年, Public domain, via Wikimedia Commons
- 高杉晋作
こうした流れを受け、幕府の将軍であった徳川慶喜は大政奉還を行い政権を明治天皇に返上し、長州藩や薩摩藩を中心として、「王政復古の大号令」を発出することで新政府を樹立しました。
新政府では五箇条の御誓文が出され人民の意見を聞いて政策決定を行うなど国家の基本体制を明らかにしました。一方で民衆に対しては五榜の掲示によって従来と同様にキリスト教の信仰を禁止しました。
領土に関しては、まず版籍奉還によって藩の領地や領民を天皇のものし、廃藩置県によって藩を廃止し府や県が設置されました。また、徴兵令や、士族(武士)の帯刀が禁止されたことによって士族の特権がなくなったことから、秩禄処分によって秩禄(給料)の支給が停止され、代わりに金禄公債証書という小切手のようなものが発行されました。
- English: Yoshida Togo (1860-1932) et al日本語: 吉田東伍 他, Public domain, via Wikimedia Commons
- 廃藩置県当初の行政区画
新政府は、新貨条例や国立銀行条例によって西洋式の硬貨や紙幣が発行されました。さらに、地租改正によって当初は地価の3%を地租としていましたが、反発が大きかったことから2.5%に引き下げられました。
加えて、学制によって小学校が各地に建設されたり、郵便制度によって雑誌や新聞が各地で読まれるようになったりしました。
工業的にも新政府は産業の発達を意味する殖産興業を国策とし、政府内に工部省が設置され、新橋・横浜間に鉄道が開設しました。富岡製糸場では生糸生産の品質向上を図りました。岩倉具視を中心とした岩倉使節団は各国に赴き海外の制度や技術を吸収しました。
- 岩倉使節団の航路
対外的には、ロシアに対する警戒にあたるために、蝦夷地を北海道と改称し、開拓使という官庁を置き、屯田兵制度によって旧士族を北海道に移住させ北海道の開拓や防衛を行わせました。
また、日露和親条約では千島列島はロシア領とされていましたが、樺太・千島交換条約を締結し樺太を日本領からロシア領とする代償として千島列島をロシア領から日本領としました。
中国との間では日清修好条規が締結され日中間の国交が樹立された一方、琉球漂流民殺害事件が台湾でおこったことをきっかけに日本は台湾出兵を行い、中国に対して日本の琉球への支配権を認めさせました。これを受けて琉球王国を廃止して沖縄県を設置するという琉球処分を実行しました。
朝鮮半島では、江華島事件という日本軍と朝鮮軍の間で発生した軍事衝突をきっかけとして日本と朝鮮の間で日朝修好条規を締結しましたが、日本の領事裁判権が認められるなど不平等な条約でした。
確認問題
波線部を、PCであればカーソルを合わせる、スマートフォンであればタップすることで答えが表示されます。
- 江戸時代において、蝦夷地とは松前藩を通して交易を行った。
- 樺太・千島交換条約によって樺太がロシア領となった。