Home >> これだけ!世界史目次 >> 日露戦争と第一次世界大戦後まで
これだけ!世界史
日露戦争と第一次世界大戦後まで
ここでは、日露戦争と第一次世界大戦後までの日本を扱います。二つの戦争を扱いますが、戦争自体というよりは戦争の結果日本がどのような動きを見せたのか、という点に注目するようにしましょう。
イギリスは「光栄ある孤立」と呼ばれる孤立主義の立場を採っていましたが、日本とイギリスは共にロシアの進出を警戒していたことから、日英同盟を締結しました。これを受けて日本軍は日露戦争の開戦に踏みきりました。当初はロシア海軍の拠点であった遼東半島の旅順を占領するとともに、日本海海戦に勝利しロシアのバルチック艦隊に打撃を与えることに成功しますが、戦線が膠着したためアメリカのセオドア=ローズヴェルトの仲介でポーツマス条約が締結し終戦しました。
ポーツマス条約によって、旅順、大順などの地域を中国から租借すること、ロシアから日本への南樺太の割譲、韓国の支配権が認められました。一方で、ロシアからの賠償金は認められなかったため、東京では日比谷焼打ち事件という暴動運動が起こりました。
- ポーツマス条約で日本が獲得した地域
ポーツマス条約によって日本の韓国への支配権が決定的となったことから、日本は第一次日韓協約、第二次日韓協約によって韓国の外交権を奪うと共に財政への干渉を強めました。また、韓国には統治機関として統監府が置かれ、伊藤博文が韓国統監となりました。
これに高宗が反発し、第2回万国平和会議に密使を送り現状を訴えようとしました。これをハーグ密使事件といいます。しかしこれは失敗し日本にも発覚しさらに干渉が強まり第三次日韓協約によって軍隊が解散させられ、日本の保護国となりました。
韓国国内では反発が強まり、旧軍人らによって義兵運動という反日運動が展開されました。そして、安重根によって伊藤博文が暗殺されると日本はこれに対抗し朝鮮併合を断行し、統監府をさらに強化した朝鮮総督府が置かれました。
- ハーグに送られた密使
明治天皇が崩御し、大正天皇が即位し大正時代となったあと、第三次桂太郎内閣が成立しますが、犬養毅や尾崎行雄はこれを薩摩藩や長州藩を中心とした藩閥政治として批判し、「閥族打破・憲政擁護」を掲げて桂内閣の倒閣運動を行い結果として桂内閣の政権交代に成功しました。これを大正政変といいます。
大正政変を契機に様々な分野で「大正デモクラシー」と呼ばれる民主化運動が展開されました。例えば、民主主義を理論的に支援した、美濃部達吉の天皇機関説や吉野作造の民本主義を背景に男性普通選挙が実施されました。さらに、労働争議や日本農民組合を中心とした小作争議、新婦人協会を中心とした女性参戦権を求める運動、全国水平社による部落解放運動など、さまざまな運動が盛んに展開されました。一方で日本共産党が結成されると政府は治安維持法によって共産主義運動を禁じました。
- English: Ministry of the Imperial Household日本語: 宮内省, Public domain, via Wikimedia Commons
- 大正天皇
その後第一次世界大戦が勃発すると日本は日英同盟を締結していたため日本は協商国側で参戦し、ドイツ領の膠州湾などを占領しました。また、中国に対しては二十一カ条の要求を突きつけ、日本に有利な条件で交渉を行いました。
また、十月革命が起こりロシアで社会主義政権が成立すると、協商国が連合してシベリア出兵を行い、日本も出兵しました。しかし、日本は各国が撤兵した後も軍を駐留させたため国内外の批判を集め、ワシントン会議後に撤兵しました。シベリア出兵によって国内では米不足となったことから全国各地で米騒動と呼ばれる暴動も発生しました。
第一次世界大戦後には民族自決の動きが強まり、朝鮮でも独立を求める三・一独立運動が起こりました。これを受けて日本は武力を中心とした「武断政治」を緩和した「文化政治」による朝鮮統治を行うようになりました。
- Bureau d'information coréen, Public domain, via Wikimedia Commons
- 三・一独立運動の様子
大正天皇が崩御し昭和天皇が即位し昭和時代になると世界恐慌が発生しますが、日本は不戦条約に参加するなど、協調的な姿勢を見せました。一方で蒋介石の北伐に対抗するために山東出兵を行いましたが、対話によって事態は収拾しました。
軍部は政府のこうした協調的姿勢に反発しており、中国に駐留していた日本軍である関東軍は満州の権益を確保するために満州の軍閥であった張作霖を爆殺しました。さらに、日本がワシントン海軍軍備制限条約を締結した際には天皇の統帥権(天皇の軍部に対する指揮権)を侵犯したとして批判しました。これを統帥権干犯問題といいます。
- See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
- 昭和天皇
その後も軍部の拡張は続き、関東軍が南満州鉄道を爆破した、柳条湖事件を口実として関東軍は満州事変を引き起こしました。満州事変によって満州国が誕生し、皇帝には、清朝最後の皇帝である溥儀(以前の宣統帝)が即位しました。
満州事変について調査するため国連からリットン調査団が派遣されましたが、これに日本側が反発し国連を脱退し、国際的に孤立してしまいます。また、美濃部達吉の天皇機関説も陸軍などによって批判されるという天皇機関説事件が起こり、当時の政府は国体明徴声明で天皇機関説を禁止しました。さらに、五・一五事件で犬養毅首相が、二・二六事件で政府要職が軍部によって暗殺されるなど、次第に日本は軍部の力が強まるようになります。
- リットン調査団
確認問題
波線部を、PCであればカーソルを合わせる、スマートフォンであればタップすることで答えが表示されます。
- 政府は治安維持法によって共産主義運動を禁じた。