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これだけ!世界史

日中戦争と太平洋戦争の復興まで

 日中戦争の開戦から、太平洋戦争に敗戦した後復興するまでの日本の様子を取り上げます。日本が日中戦争や太平洋戦争を開戦するなかで、軍国主義化していく過程を押さえるようにしましょう。

 まず、日本軍と中国軍が盧溝橋事件によって衝突したことをきっかけに日中戦争が勃発しました。当初中国側は劣勢で南京を占領されましたが、重慶を首都にして抵抗を続けました。一方日本は占領した南京に親日派の汪兆銘(おうちょうめい)による政権を樹立しました。
 日本国内では国民の協力を得るために、第一次近衛文麿内閣国民精神総動員運動を推進し言論や思想を統制しました。さらに、戦時統制経済によって経済の統制も行いました。しかし中国側は重慶で抗戦を続け戦争は長期化したことから、国家総動員法を制定し内閣の権限を強化し、議会の承認なしに人や物資を戦争に動員できるようになりました。日中戦争を正当化するために近衛内閣は日本を中心とした東アジア秩序である、東亜新秩序の建設を掲げました。

日中戦争における日本占領地
日中戦争における日本占領地

 第二次世界大戦が始まり、第二次近衛内閣が成立するとドイツイタリアのような独裁体制を行うため、政党が解散し、フランス領インドシナ連邦北部(北部仏印)に侵攻しました。さらに、日独伊三国同盟を結び、日独伊三国防共協定をさらに発展させ、軍事的関係を強化しました。
 政党や団体を統合する組織として大政翼賛会が結成され、隣組産業報国会など、地方や職場などでも戦争協力組織が設けられました。朝鮮台湾などの植民地では日本語教育や創氏改名(日本風の氏名にすること)などの「皇民化」政策によって日本への愛国心を持たせ、戦争協力を求めました。

隣組による炊き出しの様子
See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
隣組による炊き出しの様子

 日本はアメリカを牽制するため日ソ中立条約を締結し、相互不可侵を約束しました。一方で石油を確保するため南部仏印に進駐したことでアメリカの反発を受け日本への石油輸出の禁止など、日本に対して厳しい経済制裁を行いました。これによって当時の首相であった東條英機は開戦やむなしという結論に至り、アメリカのハワイにある真珠湾に奇襲しました。これによって太平洋戦争が始まります。太平洋戦争では大東亜共栄圏を掲げ植民地の解放を大義名分としていましたが、住民の生活が悪化したため日本への反発運動も起こりました。
 日本は当初優勢でしたが、ミッドウェー海戦での敗北により劣勢になり、東京大空襲沖縄戦では多くの死者が出ました。その後連合国がヤルタ会談によってソ連の対日参戦南樺太千島列島の領有が決定されました。こうした状況を受け連合国はポツダム宣言で日本の無条件降伏を求めましたが、政府が無視したため、8月6日にアメリカによって広島に初めて原子爆弾が投下され、その後ソ連が独ソ不可侵条約を破棄して対日参戦を行いました。さらに、8月9日にもアメリカによって長崎に原子爆弾が投下されたため、日本は降伏し、第二次世界大戦が終結しました。国民には8月15日の、「玉音放送(ぎょくおんほうそう)」といわれる昭和天皇によるラジオ音声によって終戦が伝えられました。

東條英機
東條英機

 戦後の日本では、日本はアメリカのマッカーサーを中心としたGHQという組織によって占領されました。GHQは公職追放令によって戦争に協力した者を指導的地位から追放しました。極東国際軍事裁判では、戦争犯罪人の処罰が行われました。
 戦後には政党が復活し、治安維持法によって禁止されていた日本共産党も合法化されました。さらに、女性参政権も認められ、女性議員が誕生しました。また、第一次吉田茂内閣のときに平和主義国民主権基本的人権の尊重を規定した日本国憲法が発布されました。
 経済においては財閥解体独占禁止法によって特定の企業が市場を支配することのないようにしました。さらに、労働組合法労働基準法などの労働法によって労働者の権利も確保されました。農村では農地改革によって自作農を増加させ、農村の民主化を促進しました。教育に関しては教育基本法学校教育法によって教育の民主化、中学校までの義務教育化、小学校6年、中学校3年、高校3年、大学4年の6・3・3・4制に改められました。地方自治法では都道府県知事の公選制が導入されました。

極東国際軍事裁判
写真秘録『東京裁判』、講談社、第1刷, Public domain, via Wikimedia Commons
極東国際軍事裁判

 冷戦が発生するとアメリカは日本の経済復興を優勢し、銀行家のドッジを日本に派遣しました。ドッジの勧告により、1ドル360円の単一為替ルート(為替ルートが変わらないこと)というドッジ=ラインが定められ、日本は国際経済に復帰することができました。一方レッド=パージと呼ばれる、共産主義者の公職追放も実施されました。
 朝鮮戦争が勃発すると日本の軍事強化の必要性をマッカーサーが感じたため、警察予備隊が創設されました。さらに、軍需品の輸出によって特需景気と呼ばれる好景気も発生しました。
 その後、第二次吉田茂首相のときにサンフランシスコ平和条約によって日本の主権が回復しました。ただし、小笠原諸島沖縄ではアメリカの統治が続き、ソ連などが批准をしなかったなどの問題点もありました。また、サンフランシス平和条約と同時に日米安全保障条約が日米間で締結され、米軍の日本への駐留などが規定されました。

サンフランシスコ平和条約
サンフランシスコ平和条約

 サンフランシスコ平和条約ののち、吉田茂内閣は労働者と警察が衝突した血のメーデー事件をきっかけに破壊活動防止法を成立させ、労働運動や社会活動を制限しました。また、アメリカから援助を受ける代わりに日本の自衛力を強化することを要求したMSA協定によって自衛隊が発足しました。公職追放が解除されると、鳩山一郎岸信介が政界に復帰したため、政界の再編成が進み、左派の日本社会党と右派の自由民主党(自民党)が成立しました。この二大政党制を55年体制と呼びます。以降基本的には自民党の内閣が続きます。
 鳩山一郎内閣のときには、日ソ共同宣言に調印したことで国連に加盟することができました。岸信介内閣のときには日米安全保障条約を改正した日米相互協力及び安全保障条約に調印し、アメリカの日本防衛義務が明確化されました。一方で条約の国会での採決は強行的に行われたため60年安保闘争と呼ばれる激しいデモ抗議が発生しました。

確認問題

波線部を、PCであればカーソルを合わせる、スマートフォンであればタップすることで答えが表示されます。

  1. 日本は石油を確保するために南部仏印に進駐した。
  • 55年体制では左派の日本社会党と、右派の自由民主党が成立した。