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これだけ!世界史
五代十国〜宋王朝
ここでは、五代十国時代から宋王朝について学びます。このあたりは、中国と異民族がどのように関わってきたのか、という点がよく問われます。よって、異民族の名前なども覚えておくようにしましょう。
五代十国時代では、後梁、後唐、後晋、後漢、後周という5つの国が順番に誕生しました。後晋は、建国のときに契丹という異民族の支援をうけたので、その見返りに燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう)を契丹に譲渡しました。
- 燕雲十六州
その後、後周の武将趙匡胤(ちょうきょういん)が開封(かいほう)を都にして宋王朝(北宋)を樹立したことで、一旦は中華に平和が訪れます。ちなみに、開封は隋の煬帝が建設した大運河上にあり、多くの商人が行き交う、開放的な都市でした。
趙匡胤は、文治主義(文民による統治)により、軍部が暴走しないような体制をつくりました。また、殿試という、皇帝が科挙の最終試験を担当する、という制度も実施しました。
一方で、宋の周辺には、多くの異民族がいました。まず、宋の北部には、契丹という民族がいました。契丹の耶律阿保機(やりつあぼき)という人は、遼という国をつくりました。遼は、宋と澶淵の盟(せんえんのめい)という和平条約を結び、宋から毎年貢物を得ることに成功します。
しかし、その後遼は、女真族の金という国に滅ぼされてしまいます。金は、完顔阿骨打(わんやんあぐだ)によって建国され、猛安・謀克という軍事・行政制度を有していました。
また、中国西北部には、タングート族によって西夏という国家が建国されました。西夏は、西夏文字を使用していました。
朝鮮半島では、王建という人物が建国した、高麗という国が新しく朝鮮半島を統一しました。都は開城です。高麗には、両班(やんぱん)と呼ばれる、支配層が誕生しました。他にも、世界で初めて金属活字を使用したり、大蔵経(だいぞうきょう)という、仏教の経典を木版印刷したものが作成されたりしました。
- Folio of a wooden typeset book in Tangut printed during the second half of the 12th century - Ningxia Institute of Cultural Relics and Archaeology, Bàisìgōu Xīxià Fāngtǎ 拜寺沟西夏方塔 [The Western Xia Square Pagoda at Baisigou] (Beijing: Wenwu Chubanshe: 2005) Colur Plate XI no.2, パブリック・ドメイン, リンクによる
- 西夏文字
趙匡胤の死後には、王安石によって、新法と呼ばれる新しい法律による改革を行おうとしましたが、反対派も多く、新法を支持する新法党と、新法に反対する旧法党が対立することになります。特に、『資治通鑑』という書物を書いた司馬光という人物が新法に反対しました。
このような政情不安のなかで、金が開封を占領し、上皇(前皇帝)の徽宗と欽宗を連れ去るという、靖康の変が発生します。その後、皇族は長江付近の臨安に逃れ、南宋という国家を樹立します。金とは、淮河を境に接することになります。
また、宋では、佃戸という小作人に土地を貸す形勢戸と呼ばれる人々が登場します。特に、科挙に合格した形勢戸のことを士大夫と呼びます。
また、蘇湖や江浙と呼ばれる長江下流域の開発が進み、「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」といわれるようになりました。
さらに、経済が発展する中で交子と会子と呼ばれる紙幣が誕生しました。また、貿易を取り締まるために市舶司と呼ばれる役職が港町におかれました。
確認問題
波線部を、PCであればカーソルを合わせる、スマートフォンであればタップすることで答えが表示されます。
- 宋の都開封は、煬帝が建設した大運河に面している。
- 金と南宋は、淮河を境に面していた。