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これだけ!世界史
イスラームの誕生
ここでは、イスラームの誕生から発展までの歴史を扱います。ウマイヤ朝とアッバース朝の違いをよく理解しておくようにしましょう。
まず、サウジアラビアにはメッカという都市があり、そこにクライシュ族という支配層がいました。クライシュ族のムハンマドは、神アッラーの啓示を受け、イスラーム教を創始しました。
メッカは多神教でしたが、イスラーム教は一神教であったため、ムハンマドやその信者は迫害をうけ、メディナへと移住しました。このことをヒジュラ(聖遷)といい、イスラーム暦(ヒジュラ歴)は、ヒジュラがあった年を元年としています。ちなみにイスラーム歴は太陰暦(月の満ち欠けをもとにした暦)です。
- メッカとメディナ
その後、信者が拡大していくなかで、アラビア半島を統一することに成功します。ムハンマドの死後には、イスラーム教の聖典である『コーラン(クルアーン)』が完成しました。また、ムスリム(イスラーム教徒)の義務として、六信五行が定められました。特に、六信五行の中でも、喜捨と巡礼は特に重要です。喜捨とは、貧しい人に対して積極的に寄付を行うというもので、具体的には、喜捨によって各地にマドラサという学校が建てられました。巡礼は、メッカのカーバ神殿や、メディナのムハンマドの墓に、一生に一度は訪れることです。
- カーバ神殿
ムハンマドの死後には、正統カリフが、ウンマと呼ばれるイスラーム共同体を統治しました。この頃には、ササン朝ペルシアをニハーヴァンドの戦いで破り、イラン方面まで領土を広げることに成功しました。さらに、ビザンツ帝国を破り、エジプトを獲得することも成功しました。
しかし、最後の正統カリフ、アリーが暗殺されたことで、イスラームは、多数派で、正当カリフ以降のカリフを承認するスンナ派と、少数派で、アリーの子孫のみを承認するシーア派に分裂します。イランでは、シーア派の王朝が多く誕生します。(スンナ派が多数派のため、以降はイランの王朝と、シーア派と明記された王朝でなければスンナ派の王朝です。)
- Kaiser&Augstus&Imperator, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons
- 正統カリフ時代の最大版図(ニハーヴァンドの戦いは筆者作成)
正統カリフ時代が終了すると、ムアーウィアは、ダマスクスを都にして、ウマイヤ朝を創始しました。ムアーウィアの死後には、西ゴート王国という国を滅ぼし、イベリア半島(現在のスペインとポルトガルがある場所)を征服することに成功しますが、フランスにあるフランク王国に侵入したところ、トゥール・ポワティエ間の戦いに敗北しました。
また、ウマイヤ朝は「アラブ帝国」と呼ばれるほど、アラブ人を優遇しており、他の民族からの反発を受けていました。具体的には、非アラブ人の場合、ジズヤ(青年男子が払う一定額の税金)や、ハラージュ(土地税)を必ず払わなければなりませんでしたが、アラブ人はこれらの税を払う必要がありませんでした。
- Kaiser&Augstus&Imperator, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons
- ウマイヤ朝の最大領土(ダマスクスと、トゥール・ポワティエ間の戦いは筆者作成)
そこで、非アラブ人や、シーア派の協力を得て、アブー=アルアッバースが、アッバース朝を建てました。アブー=アルアッバースのときには、中国の唐王朝に、タラス河畔の戦いで勝利し、捕虜から製紙法についての技術が伝播しました。ちなみに、製紙法は、後漢のときに宦官蔡倫によって改良されました。
また、アッバース朝は、「イスラーム帝国」と呼ばれ、ムスリムであれば公平に税を負担しました。具体的にはハラージュはアッバース朝の全ての人民に課され、人頭税はズィンミー(非イスラーム教徒)に課されました。
2代目のアッバース朝のカリフ、マンスールのときには王都バグダードが建設されました。
しかし、アッバース朝の後半は、軍部が強大化し、各地に独立した王国が建国されてしまい、最終的にはモンゴルのフラグという人物によって滅ぼされ、フラグはイル=ハン国を建てました。
- Kaiser&Augstus&Imperator, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons
- アッバース朝の最大版図(バグダードとタラス河畔の戦いは筆者作成)
確認問題
波線部を、PCであればカーソルを合わせる、スマートフォンであればタップすることで答えが表示されます。
- イスラーム歴(ヒジュラ暦)は、月の満ち欠けを基準とした太陰暦である。
- マンスールのときに、王都バグダードが建設された。