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これだけ!世界史
近代中国の動揺
ここでは、近代中国がどのような歴史を辿ってきたのかを見ていきます。アロー戦争やアヘン戦争の結果や、それに対してどのような国内運動が起こったのかを理解するようにしましょう。
まず、中国はイギリスに対して茶を輸出しており、その代金としてイギリスは中国に銀を輸出していました。よって、イギリスからすればどんどん銀が流出している状態であったため、インドからアヘンを中国に輸出し、見返りに銀を手に入れることで銀の回収を図りました。これをアジア三角貿易といいます。
- アジア三角貿易
アジア三角貿易によってアヘンが大量に中国に流入した結果、アヘン中毒患者が急増します。これに危機感を抱いた林則徐という役人はアヘン貿易の取り締まりを行いました。これにイギリスが反発したことによって、アヘン戦争が勃発しました。しかし、産業革命が起こり軍事力も向上していたイギリスに中国は敗北し、南京条約を締結します。南京条約によって、上海など5港の開港、公行という貿易を独占していた商人階級の廃止、香港のイギリスへの割譲が定められました。
- Edward Duncan, Public domain, via Wikimedia Commons
- アヘン戦争
その後、今度はイギリスとフランスが中国に対してアロー戦争を起こします。これもイギリス、フランスが勝利したため、天津条約を締結しましたが、英仏軍に対して中国軍が発砲したため、再び戦闘が始まりますが、英仏軍が再び勝利し円明園を破壊したのちに北京条約を締結しました。北京条約によってキリスト教布教の自由化などが定められました。また、西洋の国とも対等な関係での外交関係を締結する必要が生じたため、外交部門として総理各国事務衙(が)門が設立されました。
- New house in the Summer Palace (颐园新居), CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
- 円明園の遺跡
国内でも清朝の支配は揺らぎ始めます。洪秀全が「滅満興漢(清朝を滅ぼして漢民族の国家を樹立すること)」をスローガンにして太平天国の乱を起こします。ただし、これは李鴻章らが指揮した地元の郷勇という軍や、欧米人が指揮した常勝軍という軍によって鎮圧されました。
一方で、国内の改革運動として、李鴻章らによって洋務運動が展開されました。これは「中体西用」をスローガンとしており、あくまで西洋の学問や技術を取り入れるだけで、国家体制は以前と同じ中国風のまま変化させない、ということを目標としていました。
- Russell & Sons, Public domain, via Wikimedia Commons
- 李鴻章
確認問題
波線部を、PCであればカーソルを合わせる、スマートフォンであればタップすることで答えが表示されます。
- インドから中国にアヘンを輸出した。
- 北京条約によって中国国内におけるキリスト教布教の自由が認められた。