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これだけ!世界史

イギリス革命

 ここではピューリタン革命から名誉革命までの一連の流れを扱います。ここでは、主に国王と市民の対立がどのように発生したか、ということを覚えておくことが非常に重要です。

 イギリスでは、エリザベス1世が子供を残さなかったため、新しくスチュアート朝の支配が始まり、ジェームズ1世がイギリス国王に即位しました。
 その後のチャールズ1世は、議会を無視した政治を行い、議会から「権利の請願」という文書が出され、課税などの際には議会の同意を得るよう要求しましたが、これをチャールズ1世は無視し、議会を解散しました。これに端を発してピューリタン革命が発生します。ちなみにピューリタンとはカルヴァン派のことでしたね。

チャールズ1世
Anthony van Dyck, Public domain, via Wikimedia Commons
チャールズ1世

 ピューリタン革命では王党派議会派が対立しますが、議会派のクロムウェルが勝利し、チャールズ1世を処刑しました。クロムウェルはアイルランドを征服したり、オランダの中継貿易を禁止するために航海法を施行したりしました。これによってイギリスとオランダが対立し、イギリス=オランダ戦争が勃発しました。これにイギリスが勝利したことでイギリスがヨーロッパの覇権を握ることになります。
 その後クロムウェルは護国卿という最高権力者の座に就任しますが、クロムウェルの死後にはスチュアート朝による支配が復活し、チャールズ2世が即位します。これを王政復古といいます。

クロムウェル
Robert Walker, Public domain, via Wikimedia Commons
クロムウェル

 しかし、チャールズ2世もカトリック復興を目指し議会と対立します。よって、議会は審査法によってイギリス国教徒のみが公職に就任できるようにしたり、人身保護法により国王が不当に逮捕などを行えないようにしました。
 一方で、チャールズ2世の弟であるジェームズもカトリック教徒だったので、彼の王位継承を認めるか、という点で議会内でも対立が生じました。ジェームズの王位継承を認める派閥をトーリ党、認めない派閥をホイッグ党といいます。

チャールズ2世
John Michael Wright, Public domain, via Wikimedia Commons
チャールズ2世

 結果的にジェームズの王位継承が認められ、ジェームズ2世として即位しました。しかし、ジェームズ2世もカトリックの復興を目指したため、議会はジェームズ2世を追放し、オランダ総督のウィリアムとその妻のメアリを、それぞれウィリアム3世メアリ2世として即位させました。ジェームズ2世の追放は、血が流れなかった名誉ある革命であったため、名誉革命と呼ばれます。
 ウィリアム3世とメアリ2世は、即位するにあたり議会によって作成された権利の宣言を受諾しました。これは、国王による専制を禁止し、議会の役割を明記したものです。権利の宣言は権利の章典として成文化されました。

名誉革命
Ludolf Bakhuizen, Public domain, via Wikimedia Commons
名誉革命

 その後、スチュアート朝も断絶したため、ドイツ系の王朝であるジョージ1世からハノーヴァー朝による統治が行われました。第一次世界大戦ではイギリスはドイツと戦ったため、第一次世界大戦以降はウィンザー朝に名前を変えました。
 ハノーヴァー朝のときには議院内閣制が発達し、初めての首相としてウォルポールが即位し、「王は君臨すれども統治せず」と言われるようになります。

ウォルポール
Studio of Jean-Baptiste van Loo, Public domain, via Wikimedia Commons
ウォルポール

確認問題

波線部を、PCであればカーソルを合わせる、スマートフォンであればタップすることで答えが表示されます。

  1. ピューリタン革命では王党派と議会派が対立したが、議会派のクロムウェルが勝利した。
  2. ジェームズの王位継承を認める派閥をトーリ党という。