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これだけ!世界史
ウィーン体制
ここではウィーン体制のときのヨーロッパについてみていきます。ウィーン体制がどういったもので、どのように崩壊していったのか、という点を意識して学習するようにしましょう。
ライプツィヒの戦い、新たな国際関係を模索するため、ウィーン会議が開かれました。オーストリアの外相メッテルニヒが主催し、勢力均衡による国際体制を主張します。フランスの外相タレーランは正統主義を主張します。これは、簡単にいうとフランス革命以前の状態にヨーロッパを回復させることを理想とした考え方です。
ウィーン会議によって、フランスではブルボン朝による支配が復活し、シャルル10世が即位しました。また、ロシアのアレクサンドル1世が、キリスト教精神により各国が助け合うことを目指し、神聖同盟を結成します。しかし、宗教上の問題等により、イギリス、オスマン帝国、教皇は神聖同盟には加入しませんでした。また、強国間で協力してウィーン体制を維持するために、ロシア、プロセイン、イギリス、オーストリアが四国同盟を結成しました。四国同盟は、後にフランスが加入して五国同盟になります。
- François Gérard, Public domain, via Wikimedia Commons
- シャルル10世
しかし、自由、平等を求める各国の市民はウィーン体制に猛烈に反発します。ドイツではブルシェンシャフト、イタリアでカルボナリ、ロシアではデカブリストといった集団が蜂起しますが、いづれも鎮圧されました。一方で、ギリシアはオスマン帝国から独立して国民国家(単一の民族による国家)の樹立をするためにギリシア独立戦争が勃発しますが、こちらに関しては成功しました。
ラテンアメリカでも、植民地の独立運動が起こります。まず、ハイチではトゥサン=ルヴェルチュールによってフランスから独立しました。コロンビアやボリビアもシモン=ボリバルの指揮のもとにスペインからの独立に成功し、その他にもメキシコがスペインから独立し、ブラジルがポルトガルから独立しました。
- ラテンアメリカの地図
一方、フランスは先述したようにシャルル10世による統治が行われていました。彼は、アルジェリア出兵を行いアルジェリアを植民地とすることに成功しますが、国民の権利を著しく制限したことから国民の不満が高まり、七月革命によりシャルル10世を退位させ、新しくオルレアン家のルイ=フィリップが即位しました。
七月革命の影響は各国に普及します。例えば、ベルギーがオランダから独立したり、イタリアではカルボナリが解散した後にマッツィーニによって青年イタリアという政治結社が組織されるなどしました。
- Franz Xaver Winterhalter, Public domain, via Wikimedia Commons
- ルイ=フィリップ
しかし、ルイ=フィリップも選挙権を高額納税者に認めないなど、国民全体を意識した政治を行わなかったため、二月革命によってルイ=フィリップを追放し、第二共和政が始まります。
七月革命も各国に大きな影響を及ぼし、この時代は「諸国民の春」と呼ばれ、民族運動が多く行われました。具体的には、オーストリアやプロイセンでは三月革命が起こり、ウィーン体制を主導していたメッテルニヒを追放しました。その結果、フランクフルト国民議会で、ドイツの統一や憲法制定について話し合われるようになりました。しかし、ドイツの統一にオーストリアを含むべきとする大ドイツ主義と、オーストリアを含むべきでないとする小ドイツ主義が対立し、結局これは成功しませんでした。
- 三月革命
確認問題
波線部を、PCであればカーソルを合わせる、スマートフォンであればタップすることで答えが表示されます。
- ハイチはフランスから独立した。
- チャーティスト運動は労働者の参戦権を訴えた活動である。