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これだけ!世界史
第一次世界大戦前後におけるアジアの民族運動
ここでは、第一次世界大戦前後の時代に、アジアではどのような民族運動が展開されたのか、というところを見ていきます。それぞれの地域ごとに整理して覚えるようにしましょう。
中国では、中国を精神面においても近代化を行うべく、文学革命と呼ばれる運動が展開され、陳独秀が創刊した『新青年』で多くの知識人が活動しました。特に、魯迅が『狂人日記』や『阿Q正伝』で儒教など、当時の社会や文化を批判しました。
第一次世界大戦中には二十一カ条の要求という、中国にとって不利な要求が日本によって受諾させられました。しかし、ヴェルサイユ条約では二十一カ条の要求の取り消しが認められなかったため、五・四運動という反発運動が発生し、中国政府はヴェルサイユ条約に批准しませんでした。
- 魯迅
また、五・四運動の流れを受け、大衆政党として孫文が中国国民党を結成しました。一方で、陳独秀らによって中国共産党が設立され、社会主義国家の樹立を目指しました。この2つの政党は一旦協力することとしました。このことを第一次国共合作といいます。第一次共合作を受けて、孫文は「連ソ・容共・扶助工農」を掲げソ連や中国共産党との協力、労働者や農民の保護を政策としました。
孫文や袁世凱の死後には中国国民党の蒋介石が南京国民政府を樹立し、北伐により軍閥と呼ばれる勢力を倒し中国を統一しました。一方で、南京国民政府の樹立前には上海クーデタを起こし共産党勢力を排除したため、第一次国共合作は終了しました。
- 蒋介石
オスマン帝国では、第一次世界大戦後にギリシア軍がイズミル(昔のイオニア地方)を占領したり、第一次世界大戦の講和条約としてセーヴル条約を締結しましたが、軍備が制限されるなど、オスマン帝国側にとって不利な状況に置かれました。
こうしたトルコの危機を脱するために、ムスタファ=ケマルはイズミルを奪還することに成功しました。また、セーヴル条約に代わって新たにローザンヌ条約を締結し主権の回復に成功しました。さらに、スルタン制を廃止することでオスマン帝国を滅ぼし、トルコ共和国を建国しました。ちなみに、トルコ共和国は旧勢力の影響を排除するためにアンカラに遷都し、現在に至っています。ムスタファ=ケマルはトルコ共和国の大統領になるとカリフ制を廃止し、ローマ字を使用するなどの近代化を行いました。
- ムスタファ=ケマル
インドでは、第一次世界大戦後に自治が約束されていましたが、実際にはローラット法によって逮捕状や裁判なくして投獄できるという法律を制定しました。これに対してガンディーは非暴力・不服従によって本国であるイギリスに抵抗し、プールナ=スワラージ(完全な独立)を目指しました。
確認問題
波線部を、PCであればカーソルを合わせる、スマートフォンであればタップすることで答えが表示されます。
- 蒋介石は上海クーデタによって共産党勢力を排除した。
- ギリシア軍はオスマン帝国領のイズミルを占領した。