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これだけ!世界史
列強の進出
列強が成長すると、アフリカに植民地をつくるなどして、どんどん勢力圏を拡大していきます。具体的にどのようにして列強による勢力圏が確立していったのかという点を見ていきたいと思います。
まず、スタンリーがコンゴの探索を行ったことから、ベルギーがコンゴの領有を決定しました。これを受けて列強各国によるアフリカ分割が始まります。ビスマルク(辞任前)によるベルリン会議では、先にアフリカの土地を占有した者が領有できるという先占権が取り決められました。
イギリスは、エジプトや南アフリカを支配していたため、アフリカの北部から南部がつながるように、アフリカ縦断政策が行われました。一方で、フランスはアルジェリアやチュニジアを獲得していたため、そこから東西に植民地を獲得していくアフリカ横断政策が採られました。
アフリカ縦断政策を行なっていたイギリスとアフリカ横断政策を行なっていたフランスは、ファショダという場所で衝突する寸前になるというファショダ事件が発生しました。ただし、軍事衝突の危機は回避され、かえってイギリスとフランスの関係は良好になり英仏協商が結ばれました。
一方で、エチオピアとリベリアはアフリカ分割の時代にも独立を保つことができた、という点を覚えておくと良いと思います。
- アフリカ分割
英仏協商の他には英露協商と露仏同盟が締結されたため、それらを合わせて三国協商といいます。一方で、ドイツはパン=ゲルマン主義を掲げていた一方でロシアはパン=スラヴ主義を掲げていたためバルカン半島をめぐって対立します。よって、ヴィルヘルム2世は再保障条約の更新を拒否し、三国同盟と三国協商が対立し、後の第一次世界大戦の契機となります。
- CC BY-SA 3.0, Link
- 三国同盟と三国協商
一方、中国では日清戦争に敗北したことから、中国も列強の影響下に入ることになります。例えば、ドイツは膠州湾(こうしゅうわん)を租借地(土地を借りること)にし、山東省を勢力圏としました。また、イギリスは威海衛を租借地とし、長江流域を勢力圏としました。
一方で、アメリカはこうした中国分割に乗り遅れたため、国務長官のジョン=ヘイという人物によって門戸開放政策が出され中国市場に平等に参入できることなどを要求しました。
- Mosr, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
- 中国分割
中国国内ではこうした列強の動きに対抗するため、康有為らによって変法運動が起こり、立憲君主制の樹立を行おうとしました。しかし、西太后によって弾圧されてしまいました。これを戊戌(ぼじゅつ)の政変といいます。
民衆も列強に対する反発意識が芽生え、義和団という組織が「扶清滅洋」という、清王朝を守り列強諸国を排除するというスローガンを打ち出し武装蜂起します。これを義和団事件といいます。清王朝もこの流れに生じて列強に宣戦布告ししたところ、8カ国の連合軍によって北京が占領されてしまいました。義和団事件の講和条約として北京議定書が締結され、外国軍の北京駐留が認められました。
- Probably German officer Franz Scholz (in Tientsin / Tianjin), Public domain, via Wikimedia Commons
- 8カ国連合軍(左から順に英米露印独仏墺伊日)
国外では、孫文によって中国同盟会が結成され、三民主義が主張されました。三民主義とは、民族・民権・民生のことで、民族は国民国家の樹立、民権は自由主義国家の樹立、民生は福祉国家の樹立を表しています。
こうした気運を受け、軍部が武昌蜂起を起こします。これによって辛亥革命が始まり、政府内の人間であった袁世凱の協力もあり宣統帝が退位し清王朝が滅亡しました。新しく誕生した国家を中華民国といいます。
袁世凱は宣統帝を退位させた見返りとして臨時大総統という地位に就任しますが、独裁的な政治を行なったため、孫文と対立することになります。
- 武昌
朝鮮では、日本が3度の日韓協約によって保護国化されていました。これに怒った安重根が朝鮮統監という役職にあった伊藤博文を暗殺してしまいます。日本もこれに対抗して朝鮮併合を実施し、朝鮮総督府という統治機関を置きました。
インドでも、自治を行うべくインド国民議会が結成されましたが、ヒンドゥー教徒中心であったことに注意しましょう。インド国民議会では四大綱領が採択されました。内容は、国産品を買うようにしようということを意味するスワデーシや、自治実現を意味するスワラージが含まれます。一方で、ムスリムも全インド=ムスリム連盟を結成し、ヒンドゥー教徒と対立するようになります。
- 安重根
ベトナムでは、ファン=ボイ=チャウによって維新会が結成され、日本に行き技術や学問を学ぶという東遊(ドンズー)運動が行われました。
フィリピンでは、ホセ=リサールが小説でスペインの支配を批判し、アギナルドがフィリピンの独立を求めてフィリピン革命を指導します。しかし、米西戦争でアメリカが勝利したことから、フィリピン革命はアメリカにより弾圧されてしまいました。
- ホセ=リサール
次に、西アジアについても見ていきましょう。トルコでは、アブデュルハミト2世がミドハト憲法を停止したことに対する不満が多く、青年トルコと呼ばれるグループによってミドハト憲法が復活しました。これを青年トルコ革命と言います。
イランでは、アフガーニーがパン=イスラーム主義を説き、ムスリムで団結することの重要性を訴えました。これを受けて、イギリスのタバコに対する独占権を排除すべく、タバコ=ボイコット運動が行われました。さらに、イラン立憲革命が発生し、立憲政治が行われましたが、英露協商によってイギリスとロシアの干渉を招き結果的に改革は失敗に終わってしまいます。
確認問題
波線部を、PCであればカーソルを合わせる、スマートフォンであればタップすることで答えが表示されます。
- ベルギーはアフリカのコンゴを領有した。
- イラン立憲革命はイギリスとロシアの干渉を招いた。