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これだけ!世界史

第一次世界大戦

 ここでは、第一次世界大戦前後の時代を説明します。第一次世界大戦によって世界情勢がどのように変化したのか、という点をしっかりと覚えておくようにしましょう。

 オーストリアでは、支配下にあったボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合しました。これに対して反発したセルビア人によってオーストリアの皇太子夫妻が暗殺されてしまいました。これをサライェヴォ事件といい、これを発端に第一次世界大戦が勃発しました。第一次世界大戦は総力戦と呼ばれ、男女問わず何らかの形で戦争の遂行に協力しました。また、飛行機戦車塹壕などの新しい兵器や戦術が導入された点でも特徴的です。
 サライェヴォ事件によって、まずオーストリアがセルビアに対して宣戦布告します。セルビアはスラヴ系民族であったため、パン=スラヴ主義を採っているロシアの援助を受けます。一方、オーストリアはドイツと同盟関係であったことからドイツが参戦しました。結果として、ドイツ・イタリア同盟国イギリス・フランス・ロシア協商国がそれぞれ争うことになります。イタリアも本来三国同盟によって同盟国側で参戦するべきですが、協商国側が「未回収のイタリア」の割譲を提案したため、協商国側で参戦しました。

サライェヴォ事件
アシル・ベルトラーメ, パブリックドメイン, via Wikimedia Commons
サライェヴォ事件

 また、日本協商国側で参戦し、ドイツ領の膠州湾などを占領しました。また、中国に対しては二十一カ条の要求を突きつけ、日本に有利な条件で交渉を行いました。
 イギリスは、オスマン帝国を弱体化させるべく、パレスチナについてさまざまな交渉を行いました。まず、フセイン・マクマホン協定アラブ人の自治を認め、サイクス・ピコ協定でオスマン帝国領をイギリス・ロシア・フランスで分割することを決め、バルフォア宣言ユダヤ人による国家樹立を約束しました。
 ドイツは、無制限潜水艦作戦を打ち出し、指定した海域以外を通行した船は問答無用で撃沈するとしました。これによってアメリカの通商が打撃を受けたことから、アメリカが協商国側で参戦しました。

オレンジが同盟国側で緑が協商国側
Aivazovsky at the English Wikipedia, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
オレンジが同盟国側で緑が協商国側

 一方ロシアでは戦争により国民の食糧不足が発生しており、戦争に反対する者が多く存在していました。よって、首都であるペトログラード(以前はペテルブルク)で二月革命が起こり、ニコライ2世が退位しロマノフ朝が滅亡しました。新たに誕生した臨時政府は戦争を継続する方針であったため、国民の反感を買いました。よって、ソヴィエトの支持を受けた、レーニン率いるメンシェヴィキが臨時政府を打倒しました。これを十月革命といい、十月革命によって初めて社会主義国家が成立しました。
 また、レーニンは「土地に関する布告」で土地の国有化を宣言し、「平和に関する布告」によって民族自決などを列強に対して要求しました。アメリカのウィルソン大統領14カ条の原則で民族自決を列強に要求しました。

レーニン
Unknown, presumably official, Public domain, via Wikimedia Commons
レーニン

 さらに、レーニンは即時講和を掲げていたため、ブレスト=リトフスク条約でドイツとの講和に成功しました。また、首都をモスクワに移転していることにも注意しておきましょう。
 この、レーニンによるソヴィエト政府では、戦時中には戦時共産主義が採られ、厳しい経済統制が行われていましたが、戦後にはネップ(新経済政策)が採られ、一定の市場開放が行われました。また、ロシア以外にもウクライナなどの国が連合することによって、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立しました。

ソ連の領土
ソ連の領土

 ドイツでも反戦感情が高まり、キール軍港で水兵による反乱が発生し、ドイツ革命が起こります。ドイツ革命によってヴィルヘルム2世が亡命したことで共和制国家となったドイツは降伏し、第一次世界大戦が集結しました。

キール軍港
キール軍港

 講和条約としてヴェルサイユ条約が締結されました。ヴェルサイユ条約ではドイツはアルザス・ロレーヌをフランスに割譲し、ラインラントという場所の非武装化が行われました。さらに、ドイツは多額の賠償金を負担することになります。加えて、ウィルソンの民族自決の考え方に基づき、チェコスロヴァキアなどの独立が認められました。
 また、ヴェルサイユ条約によって国際連盟が設立され、本部はスイスのジュネーヴに置かれました。しかし、アメリカは再びモンロー主義による孤立主義の傾向が強まったため、アメリカに国際連盟が参加しなかったことや、意思決定は全会一致原則により行われたことから、うまく機能せず、国際秩序を維持し続けることはできませんでした。

ヴェルサイユ条約後のヨーロッパ
derivative work: Fluteflute (talk)Map_Europe_1923-fr.svg: Historicair, CC BY-SA 2.5, via Wikimedia Commons
ヴェルサイユ条約後のヨーロッパ

 また、ヴェルサイユ条約の後にも第一次世界大戦の反省を活かして国際協調のためにさまざまな努力が行われました。例えば、ワシントン会議が開かれ、四カ国条約太平洋秩序について、九カ国条約で中国の秩序についてが取り決められました。さらに、ワシントン会議の中でワシントン海軍軍備制限条約が批准され、各国の主力艦の比が定められました。
 さらに、その後ロカルノ条約でドイツの国連加盟が認められたり、アメリカのケロッグ国務長官とフランスのブリアン外相の間で不戦条約が締結され戦争の放棄が規定されたりしました。

ワシントン海軍軍縮条約で定められた各国の主力艦比
ワシントン海軍軍縮条約で定められた各国の主力艦比

確認問題

波線部を、PCであればカーソルを合わせる、スマートフォンであればタップすることで答えが表示されます。

  1. サライェヴォ事件によってオーストリアはセルビアに対して宣戦布告した。
  2. 国際連盟の本部はジュネーブに置かれた。