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これだけ!世界史

冷戦

 このチャプターでは冷戦について扱います。アメリカとソ連の緊張状態がどういった風に変化していたのかを意識して学習するようにしましょう。

 第二次世界大戦が終了して共通の敵がいなくなると、アメリカソ連は関係が悪化し、直接戦争にはならなかったものの一触即発の状態になります。これを冷戦といいます。チャーチルは、冷戦によってヨーロッパの間に「鉄のカーテン」が敷かれたと表現しました。そこで、アメリカのトルーマン大統領は、トルコギリシアが共産主義化しないように、経済援助を行うというトルーマン=ドクトリンを実施しました。トルーマン=ドクトリンはマーシャル=プランとしてヨーロッパ各国にも拡大しました。
 一方で、ソ連はこうした西側諸国(資本主義国)に対抗するためにコミンフォルムを結成し、東側諸国(社会主義国)間で情報交換を行いました。

鉄のカーテン
© Sémhur / Wikimedia Commons
鉄のカーテン

 また、ドイツは西側は資本主義国によって占領されており、東側はソ連が占領していました。また、ソ連占領地のなかにあるベルリンも西側と東側で分断して占領が行われていましたが、西ベルリンで独自に通貨改革を行ったところソ連が反発し、ベルリン封鎖を行ってしまいました。ただし、西側諸国は物資を空輸することで事態を乗り越えることができました。
 その後、ドイツの西側はドイツ連邦共和国西ドイツ)として、東側はドイツ民主共和国東ドイツ)としてそれぞれ独立しました。ベルリンも西側は西ドイツで東側は東ドイツの領土になりました。
 ヨーロッパでは、マーシャルプランの受け入れ機関としてヨーロッパ経済協力機構が設立されましたが、ソ連はやはりこれに対抗してコメコンを発足し、東側諸国間での経済協力を推し進めました。
 軍事的にも、西側諸国がNATOという集団的安全保障体制が設立されると東側諸国はワルシャワ条約機構を設立しました。

ベルリン封鎖中の空輸の様子
Henry Ries / USAF, Public domain, via Wikimedia Commons
ベルリン封鎖中の空輸の様子

 また、こうした冷戦の影響は中国にも及びます。日中戦争が終わった後には再び中国国民党中国共産党による内戦が発生しますが、毛沢東に率いられた中国共産党が勝利し、中華人民共和国(以下中国=中華人民共和国とする)の建国を宣言しました。一方で中国国民党の蒋介石台湾に逃れました。
 毛沢東は、同じ共産主義国であるソ連と中ソ友好同盟相互援助条約を締結し関係を強化しました。
 一方朝鮮半島は日本領であったため、ドイツと同様に北緯38度線を境にして、北部ではソ連が、南部ではアメリカが占領していました。その後、南部では大韓民国韓国)が、北部では朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)が独立しました。韓国は李承晩(イスンマン)が初代大統領となり、北朝鮮では金日成(キムイルソン)が首相となりました。
 しかし、その後北朝鮮が韓国に侵攻したことで朝鮮戦争が勃発しました。一時は北朝鮮側が優勢でしたが、アメリカ主体の国連軍が韓国側で戦ったことで韓国側が優勢になります。しかし、その後中国が義勇軍を派遣したことから戦線が膠着したため、休戦協定が結ばれ結局国境線は北緯38度線のまま変わりませんでした。

現代の朝鮮半島
現代の朝鮮半島

 一方アメリカでは新しくアイゼンハワーが大統領となり、積極的にソ連に対する攻勢を行うという「巻き返し政策」を打ち出しました。こうした状況の中で、マッカーシーが中心となり、共産主義者の弾圧を行う「赤狩り」が行われました。
 ソ連ではスターリンが死去したあとにはフルシチョフが指導者となりました。フルシチョフはスターリン批判や西側諸国とジュネーヴ4巨頭会談を行うなどの平和共存政策を打ち出し「雪どけ」といわれる米ソが一定の友好関係を築くことに成功しました。
 これを受けて東側諸国内でも改革の機運が強まり、ハンガリーではハンガリー反ソ暴動が発生しナジ=イムレが首相に就任し自由化を進めました。しかしこれをソ連は許容することはできずソ連の軍事介入を招いてしまい、ナジ=イムレが処刑されたことで暴動は収束しました。

フルシチョフ
Bundesarchiv, Bild 183-B0628-0015-035 / Heinz Junge / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 DE, via Wikimedia Commons
フルシチョフ

 冷戦によって資本主義陣営と社会主義陣営の対立が激化していましたが、中国や戦後独立したインドなどはいずれの陣営にも属さない第三勢力として世界に影響を与えました。中国はソ連と中ソ友好同盟相互援助条約を締結していましたが、中国はソ連の平和共存政策を弱腰であると批判したため、関係が悪化していました。
 まず、中国の首相であった周恩来とインドの首相であったネルー平和五原則を発表し内政不干渉などを求めました。その後、オランダから独立したインドネシアアジア=アフリカ会議が開催され、平和五原則を拡大した平和十原則が発表されました。
 その後にはティトーによって独立したユーゴスラヴィア非同盟諸国首脳会議が開催され、インドのネルーやエジプトのナセルらが参加しました。

アジア=アフリカ会議の参加国
Ichwan Palongengi, updated by Bugoslav., CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
アジア=アフリカ会議の参加国

 キューバでは、新米的なバティスタが政権の座に就いていましたが、国民の不満が高かったことからキューバ革命が起こりカストロが指導者となり社会主義国家を樹立しました。
 キューバは社会主義陣営に加入し、ソ連によってミサイル基地が建設されていました。アメリカのケネディ大統領はこれに対抗しキューバを海上封鎖したことから、米ソ間で核戦争が勃発しかねないというキューバ危機が発生しました。結局キューバ危機はソ連のフルシチョフが譲歩し、ミサイル基地を撤去したことで収束しました。

カストロ
Bernard Gotfryd, Public domain, via Wikimedia Commons
カストロ

 キューバ危機などから責任を問われフルシチョフは解任され、その後新しくブレジネフという人物が指導者となりました。ブレジネフはアフガニスタンへ軍事侵攻してアメリカから批判されました。同様に、チェコスロヴァキアで民主的なドプチェク政権が誕生するという「プラハの春」が起こりましたが、ブレジネフが軍事介入した結果ドプチェクは辞任しました。
 その後ソ連の指導者となったゴルバチョフは対照的にペレストロイカと呼ばれる改革を推進し、グラスノスチといわれる情報公開も積極的に行いました。ゴルバチョフはアメリカのブッシュ大統領マルタ会談を行い冷戦の終結を宣言しました。
 さらに、ソ連が解散されたことで、ロシア連邦が誕生しエリツィンが大統領となり資本主義国家として再出発します。なお、ソ連に加入していた国の多くは独立国家共同体に加入し、経済などの分野で協力を現在も行なっています。

確認問題

波線部を、PCであればカーソルを合わせる、スマートフォンであればタップすることで答えが表示されます。

  1. トルーマン=ドクトリンではトルコとギリシアに対して経済援助が行われた。
  2. ネルーと周恩来が平和五原則を発表した。