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これだけ!世界史

現代各国史

 ここでは現代の各国における歴史を見ていきます。覚えることが多いので、まずは流れをしっかり意識して学習しましょう。

 まず、アメリカの歴史を見ていきましょう。アイゼンハワーのあとにはケネディが大統領になりましたが、彼は「ニューフロンティア政策」といわれる、格差の是正を目指した政策を打ち出しました。また、ケネディのときにはキング牧師を中心とした公民権運動が展開され、黒人に対する差別の撤廃を訴えました。
 しかし、ケネディが暗殺されたことから、後任としてジョンソンが大統領になりました。ジョンソンはケネディ路線を継承し、差別のない「偉大な社会」を目指し公民権法を制定し黒人に対する差別が禁止されました。

キング牧師の演説の様子
Rowland Scherman, Public domain, via Wikimedia Commons
キング牧師の演説の様子

 ジョンソンのあとにはニクソンが大統領となりました。ニクソンがドルの交換を禁止したことでドルを基軸とした国際通貨体制が動揺するというドル=ショックと呼ばれる事態が発生しました。ドル=ショックによって固定相場制から変動相場制に移行しました。また、ニクソンは共和党でしたが、民主党の本部に盗聴器を仕掛けるというウォーターゲート事件に関与していたことが明らかとなり、辞任しました。
 その後には、カーターという人物が大統領となり、「人権外交」を打ち出し中東での平和に貢献しました。その後のレーガン大統領のときには、新自由主義という、政府の経済への介入を最小限とする経済政策を実施しました。一方で貿易財政が赤字となるという「双子の赤字」に苦しみました。
 ブッシュ大統領マルタ会談冷戦を終わらせることに成功しました。また、ブッシュの時にイラクのフセインクウェートという国に侵攻したため、アメリカなどの多国籍軍がイラクを攻撃するという湾岸戦争が発生し、イラクはクウェートから撤退しました。クリントン大統領のときにはアメリカメキシコカナダ北米自由貿易協定を設立し、北米での自由貿易を促進しました。

ニクソン
National Archives at College Park, Public domain, via Wikimedia Commons
ニクソン

 その後、マルタ会談のときのブッシュの子供のブッシュが大統領になりました。ブッシュの時には、ビン=ラーディンを首班とするアル=カイーダという組織によって9月11日にアメリカ国内で同時多発テロが起こり多くの死傷者が出ました。ビン=ラーディンはアフガニスタンのターリバーン政権によって匿われているとしてブッシュはアフガニスタンを攻撃しターリバーン政権を瓦解させ、ビン=ラーディンを殺害しました。
 また、イラクも敵視し、フセイン政権が大量破壊兵器を保有しているとしてイラクを攻撃しフセイン政権を崩壊させましたが、大量破壊兵器は見つかりませんでした。

9.11同時多発テロ
UA_Flight_175_hits_WTC_south_tower_9-11.jpeg: Flickr user TheMachineStops (Robert J. Fisch)derivative work: upstateNYer, CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons
9.11同時多発テロ

 次に、ベトナムでは戦後にホーチミンによって独立が成し遂げられ、ベトナム民主共和国を建国しました。一方でベトナムを支配していたフランスがこれを認めなかったため、インドシナ戦争が勃発しました。インドシナ戦争の中でフランスはベトナム南部にベトナム国を建国しますがホーチミンが勝利しジュネーヴ休戦協定が締結されました。ジュネーヴ休戦協定では北緯17度線以北をベトナム民主共和国が支配し、北緯17度線以南をベトナム国が支配するというものでした。また、ラオスカンボジアの独立も認められました。
 一方で、ホーチミンは社会主義者であったことから資本主義国であるアメリカの反発を招き、ベトナム戦争が開始され、アメリカはベトナム民主共和国を空爆しました。これを北爆といいます。しかし、ベトナム戦争が膠着化してしまい、反戦運動もアメリカ国内が展開されたことから、アメリカのニクソン大統領パリ和平協定を締結し米軍がベトナムから撤退しました。
 その後ベトナム戦争自体も終了し、ホーチミンがベトナムを統一しベトナム社会主義共和国の建国を宣言しました。ベトナム社会主義共和国はドイモイと呼ばれる経済開放政策を行い経済成長を達成しました。

ジュネーヴ休戦協定直後のベトナム
ジュネーヴ休戦協定直後のベトナム

 第二次世界大戦後にはインド帝国はヒンドゥー教徒中心のインドと、イスラーム教徒中心のパキスタンに分離独立しました。インドの初代首相はネルーで、パキスタンの初代総督はジンナーです。パキスタンは西パキスタン東パキスタンに分かれていましたが、東パキスタンはバングラデシュとして独立しました。
 また、スリランカイギリスの支配から独立しましたが、少数派のヒンドゥー教徒であるタミル人多数派の仏教徒であるシンハラ人の間で内戦が発生しましたが、現在は終結しています。
 インドネシアでは、スカルノによってオランダから独立することに成功しました。しかし、九・三〇事件という軍部のクーデタによりスカルノが失脚し、その後スハルトが大統領となりました。
 マレーシアはイギリスから独立しましたが、シンガポールがマレーシアから独立し、リー=クアンユーという人物によって経済発展が推進されました。

現代の東南アジア
現代の東南アジア

 ヨーロッパでは経済や資源を共同で管理する動きが現れ、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体ヨーロッパ原子力共同体ヨーロッパ経済共同体が発足し、これらはその後ヨーロッパ共同体EC)として一括化されました。
 ヨーロッパ共同体をさらに拡大すべく、マーストリヒト条約によってヨーロッパ連合EU)が誕生し、統一通貨としてユーロが導入されました。EUはのちに東欧の多くの国が加入しました。

ECとEUの加盟国の変
ECとEUの加盟国の変遷

 フランスでは、第二次世界大戦には第四共和政が成立しましたが、ド=ゴール第五共和政を樹立し大統領の権限を強化しました。またド=ゴールはアルジェリアの独立を承認しました。
 イギリスではサッチャーが首相となると、レーガン同様に新自由主義政策を推し進めます。また、サッチャーの頃にはフォークランド諸島をめぐってイギリスとアルゼンチンが争うというフォークランド戦争が起こりますが、イギリスが勝利しました。
 ドイツでは冷戦のときに西ドイツ東ドイツに分裂しましたが、西ドイツではアデナウアーが首相となり経済復興を達成し、NATOにも加盟しました。一方で、東西ドイツの対立が激化し東ドイツによってベルリンの壁が建設されました。
 ブラント首相のときには東方外交を行い東側諸国との融和を訴えました。また、このときには東西ドイツが同時に国連加盟しました。こうした状態もありコール首相のときにはベルリンの壁が開放され、その後ドイツは資本主義国として統一されました。

フォークランド諸島
TUBS, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
フォークランド諸島

 パレスチナでは国連総会によってパレスチナ分割案が可決され、パレスチナにはユダヤ人の国であるイスラエルとアラブ人の国であるパレスチナが建国されました。しかし、パレスチナの領土が少なかったためイスラエルとアラブ人の間で第一次中東戦争が勃発しますが、イスラエルが勝利します。
 その後、エジプトのナセル大統領スエズ運河を国有化したことから、イギリスフランスイスラエルがエジプトに対して攻撃を行い、第二次中東戦争が始まりましたが、これは国連の停戦決議により速やかに停戦に至りました。
 第三次中東戦争はイスラエルがパレスチナに侵攻したことから始まり、イスラエルが勝利しシナイ半島ガザ地区ゴラン高原ヨルダン川西岸を占領しました。第四次中東戦争ではアラブ側が攻撃を行い、アラブ石油輸出国機構石油戦略を発動したことで第一次石油危機が発生し、原油の価格が急騰しました。
 その後、エジプト=イスラエル平和条約によってシナイ半島はエジプトに返還されました。また、イスラエルのラビン首相と、アラブ人の組織であるパレスチナ解放機構アラファト議長によってオスロ合意が締結され、ガザ地区やヨルダン側西岸でアラブ人の自治政府が成立しました。

赤が第三次中東戦争でイスラエルが獲得した領土
「地理院タイル(淡色地図)」(国土地理院)(https://maps.gsi.go.jp
/#6/31.506920/39.550600/&base=pale&ls=
pale&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m

をもとに当方作成
赤が第三次中東戦争でイスラエルが獲得した領土

 イランでは、宗教指導者であるホメイニという人物によってイラン革命が発生し、当時のイランの王朝であったパフレヴィー朝が打倒されました。イラン革命後のイランでは原油の生産量が激減したため、第二次石油危機が起こり再び世界中で原油価格が高騰しました。
 アフリカでは1960年は「アフリカの年」と呼ばれ、ナイジェリアなどの国が誕生しました。新たに独立したアフリカ諸国はアフリカ統一機構を結成し連帯を強め、これは後にアフリカ連合となりました。

アフリカ諸国が独立した年
Mehmetaergun; recreated by Nobelium (talk) 2010-05-10, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
アフリカ諸国が独立した年

 中国では毛沢東らの中国共産党によって中華人民共和国が建国されました。毛沢東は「大躍進」と呼ばれる政策を展開し、人民公社を設立し農業の集団化などを行いましたが失敗に終わってしまいます。これによって毛沢東に対する批判も生まれたことから、彼は権力の回復を図るためプロレタリア文化大革命によって鄧小平などを資本主義者の実権派として失脚させました。また、学生らの紅衛兵によって各地で暴動を起こさせました。
 一方で、中国ではソ連との関係悪化が生じており、中国とソ連の国境線付近では中ソ国境紛争も生じていました。よって、アメリカとの関係改善に成功し、ニクソン大統領が訪中し中国を承認しました。また、国連の代表権も台湾の中華民国から中華人民共和国に以降し、台湾は国連から脱退せざるをえませんでした。
 毛沢東の死後にはプロレタリア文化大革命が終焉し、華国鋒が実権を握り、農業工業国防科学技術の「四つの現代化」を推進しました。その後実権を握った鄧小平改革・開放政策によって人民公社を解体するなどして、市場経済を導入しました。一方で政治の自由化は許さず、自由化を求めた民衆を軍部が弾圧するという天安門事件も鄧小平のときに起こりました。また、江沢民が指導者となったときにはイギリスから香港が返還されました。

鄧小平
See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
鄧小平

 韓国では、李承晩のあとには朴正煕(パクチョンヒ)が大統領となり、国家の強い権力のもとに開発を行うという、開発独裁が行われました。その後民主化が進み、盧泰愚(ノテウ)大統領のときには北朝鮮と韓国が同時に国連に加盟し、金大中(キムデジュン)大統領のときには太陽政策という北朝鮮との友好政策が行われました。

確認問題

波線部を、PCであればカーソルを合わせる、スマートフォンであればタップすることで答えが表示されます。

  1. ナセル大統領のときにスエズ運河を国有化した。
  2. 香港がイギリスから中国へ返還された。