https://sekaishi-cafe.com

Home >> これだけ!世界史 目次 >> 近世イスラーム

文字サイズ

これだけ!世界史

近世イスラーム

 ここでは、オスマン帝国やイランなどの近世のイスラーム各国の歴史について取り扱います。特に、オスマン帝国は世界史上に与えた影響が大きいので、政治や制度などを把握しておきましょう。

 まず、中央アジアではサマルカンドを中心として、ティムールによってティムール朝が建設されました。ティムール朝は西方に進出し、イランなどの西アジアを支配することに成功しました。アンカラの戦いではオスマン帝国のスルタンバヤジット1世を捕虜にもしています。
 しかし、ティムールの死後にはティムール朝は分裂し、遊牧民のウズベクによって滅ぼされ、イランにはサファヴィー朝が成立します。

ティムール朝(サマルカンドの下線は筆者作成)
Stuntelaar, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
ティムール朝(サマルカンドの下線は筆者作成)

 サファヴィー朝はイスマーイール1世によって創始されたシーア派の王朝です。サファヴィー朝はアッバース1世のときに最盛期を迎え、イスファハーンへ遷都しました。イスファハーンにはイマームのモスクが建立され、非常に華麗な都市であったことから「イスファハーンは世界の半分」とまで言われました。

サファヴィー朝
サファヴィー朝

 次に、オスマン帝国について見ていきます。オスマン帝国はトルコ人による国家です。オスマン帝国では、ティマール制が実施されていました。これは、概ねイクター制と同じものと捉えて良いと思います。また、オスマン帝国支配地のキリスト教徒男子はイスラームに改宗させられ、その一部はイェニチェリと呼ばれる、皇帝直属の軍隊に所属させました。
 先述したように、バヤジット1世のときにはティムールに敗北し、オスマン帝国は滅亡の危機に陥りましたが、メフメト2世のときにはコンスタンティノープルを攻略し、ビザンツ帝国を滅亡へと追いやりました。コンスタンティノープルは、オスマン帝国以降はイスタンブルと呼ばれるようになり、今日に至っています。
 セリム1世のときにはエジプトのマムルーク朝を征服することに成功しました。スレイマン一世のときにハンガリーを征服し、第一次ウィーン包囲を行いますがこれは失敗しました。また、スレイマン一世のときにはプレヴェザの海戦でヴェネツィアやスペインの海軍に勝利し、地中海の覇権を握ることに成功しました。

オスマン帝国の最大版図
Kaiser&Augstus&Imperator, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons
オスマン帝国の最大版図

 次に、インドについてみていきます。インドではバーブルによってムガル帝国が建国されました。その後の皇帝アクバルのときにはジズヤ(人頭税)を廃止しました。
 その後、皇帝シャー=ジャハーンによって、皇后の霊廟としてタージ=マハルが建設されました。
 アウラングゼーブのときにムガル帝国の最大領土を支配することに成功しますが、ジズヤ(人頭税)を復活させることで各地で反発を招きました。

ムガル帝国
Nataraja at French Wikipedia, edited by Safkan at Japanese Wikipedia, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
ムガル帝国

 また、ムガル帝国のときにはインドの文化とイスラーム文化が融合した、インド=イスラーム文化が発達しました。例えば、イスラーム王朝の言語であるペルシア語と、インド独自の言語であるヒンディー語が融合してウルドゥー語が誕生しました。ウルドゥー語は現在では、イスラームを国教としているパキスタンの公用語です。
 また、ナーナクによってシク教が誕生しました。これは、イスラームの影響を受けてヒンドゥー教を改革したものです。

確認問題

波線部を、PCであればカーソルを合わせる、スマートフォンであればタップすることで答えが表示されます。

  1. メフメト2世のときに、オスマン帝国はビザンツ帝国の都であるコンスタンティノープルを攻略した。
  2. ウルドゥー語は現在のパキスタンの公用語である。

ぜひSNSでのシェアをお願いします!