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これだけ!世界史

富国強兵と強まる対外進出

 ここでは、明治時代の日本が富国強兵により成長していく様子を取り上げます。どのような政策を打ち出していたのか、ということをしっかりと覚えておきましょう。

 明治時代の日本は、少しづつ自由化や民主化を行っていきます。まず、板垣退助らによって、議会を設立すべきであるという民撰議院設立の建白書を政府に提出し、自由民権運動が始まり結社の設立が進みます。一方で、讒謗律(ざんぼうりつ)や新聞紙条例によって言論の統制を行いました。
 自由民権運動によって各地に結社が設立されると、それらを統合する形で国会期成同盟が結成されました。一方、これに対しても政府は集会条例によって集会を規制することで対抗しました。
 国会期成同盟は意見がまとまらなかったため解散し、板垣退助は自由党を結成しました。政府の資産を関係者に有利に売り払おうとしていたことが発覚するという開拓使官有物払下げ事件が発生し批判が起こったことから、政府内の大隈重信も議院内閣制の導入を訴えました。よって、政府は国会開設の勅諭によって国会開設を約束し、大隈重信は立憲改進党を結成しました。

大隈重信
Photographer working for the government of Japan, Public domain, via Wikimedia Commons
大隈重信

 政府内の伊藤博文は、国会開設の準備を行うため内閣制度を設け、伊藤博文自身が初代内閣総理大臣となりました。そしていよいよ大日本帝国憲法が発布され立憲政治が始まります。大日本帝国憲法は、天皇によって定められた欽定憲法(きんていけんぽう)という形をとっており、軍部などにおいて天皇大権が認められていました。立法府としては帝国議会が設立され、帝国議会は直接選挙によって選出された議員が所属する衆議院と、国家への功績者である華族などが所属する貴族院から構成されました。一方で、衆議院選挙では選挙権が税金を一定額納付した男性に限定されていました。ちなみに、納税額によって選挙権を制限する選挙のことを制限選挙といいます。一方で、一定の年齢に達すれば誰でも選挙権が与えられる選挙を普通選挙といいます。

大日本帝国憲法と日本国憲法の違い
大日本帝国憲法と日本国憲法の違い

 外交面では、井上馨(いのうえかおる)外務卿(現在の外務大臣)のときに西洋風の社交場である鹿鳴館(ろくめいかん)を建設するなど欧化政策を進めることで不平等条約の改正を行おうとしましたが失敗します。その後陸奥宗光(むつむねみつ)外務大臣のときに領事裁判権の撤廃に成功し、日露戦争の後には小村寿太郎外務大臣によって関税自主権が回復しました。
 一方朝鮮では、国王高宗の父である大院君と、王妃閔妃(びんひ)の一族である閔氏が対立していました。閔氏が政権の座に就くと日本と協力して改革を進めていましたが、それに反発した大院君らによって壬午軍乱が発生します。ただ、結局中国の支援によって鎮圧されました。壬午軍乱では中国が支援を行なってくれたため、閔氏政権は中国と協力することになります。
 これに対して官僚の金玉均(きんぎょくきん)が反発し甲申政変というクーデタを起こしますがこれも中国によって鎮圧されました。このあと日本と中国の間で天津条約が締結され、どちらかの国が朝鮮に出兵する際には通告することなどが定められました。

大院君
Hulbert, Homer B. - Hulbert, Homer B.The Passing of Korea. Page 116.New York: Doubleday, Page, & Co.1906.Digitized by MSN, at the Internet Archive.https://archive.org/details/passingofkorea00hulbuoft, パブリック・ドメイン, リンクによる
大院君

 その後農民反乱である甲午農民戦争が朝鮮で発生すると日本が介入したことをきっかけに日清戦争が勃発しました。これに日本が勝利すると下関条約を締結し台湾澎湖(ほうこ)諸島遼東半島の日本への割譲、朝鮮の独立、賠償金を認めさせました。賠償金は八幡製鉄所の設立などに使用されました。
 しかし、遼東半島の割譲に対しては、フランスドイツロシア三国干渉を受けたため中国に返還しました。また、下関条約をうけて朝鮮では国号が大韓帝国となり、高宗が皇帝となりました。

日清戦争に関係する場所(赤が日本の領土となった場所)
日清戦争に関係する場所(赤が日本の領土となった場所)

 日本では、富国強兵をスローガンとし、産業の発達が強く推進しました。例えば、生糸(きいと)を生産する製糸(せいし)業が発達し、生糸の輸出も行われました。その後重工業が発達すると、政府とつながりをもった政商と呼ばれる事業者が現れ、後の財閥になりました。産業の発達によって労働運動も盛んになりましたが、政府は治安警察法によってこれを規制しました。
 産業の振興によって教育の必要性も増し、義務教育が行われるようになると男女問わず就学率が向上しました。また教育面や道徳面に関しては、明治天皇の直接の言葉として発布された教育勅語が大きな役割を果たし忠君愛国という、天皇に忠義をつくし国を愛することが求められました。

確認問題

波線部を、PCであればカーソルを合わせる、スマートフォンであればタップすることで答えが表示されます。

  1. 下関条約によって台湾、澎湖諸島、遼東半島の割譲が認められた。
  2. 日本では、生糸を生産する製糸業が発達した。

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